- 2008 年 12 月 23 日 8:00 PM
- [わ]
枠組みの決まったものってつまらないと思いつつ、決まっているからスムーズに物事が進むこともあるわけですよ。枠組みが必要なこともある、というか、枠組みの必要なことの方が世の中、多いなぁ、と。
そう考えたら何でもかんでも反発すりゃいいってもんじゃないですよね…………( = =) トオイメ
もちろん、その枠組みが人を縛るものであってはならないと思うんですが。人の自由度をあげるためにこそ、ある程度の枠組みが必要である、と。
自分はマニュアル嫌いだけど、大多数の人は逆にマニュアルを欲しているようで、それは境界線を知るためなのかもしれないなぁって思ったんですよね。その辺に無頓着だから、いらぬ軋轢を生むようです、自分orz
そんなわけで本日は「枠組み」をキーワードに検索、「枠組み」について考察しているテキストを、ピックアップしてみようかと思います。
あああああ、目から鱗が落ちました。高森顕徹氏のベストセラーになった光に向かって100の花束の中にあった訓話の一つ、善人ばかりと悪人ばかりの話があったことを思い出しました。
考え方のベースとしては同じなんですよね。でも自分の考えが偏ってるから、この方向には思い至らなかったというか。ある意味、悔しくもありますね。
自分で自分を縛っている枠組みの存在を認め、その枠組みのありようを把握した上で、少しずつ枠組みを広げていく、このエントリはそのための示唆に満ちています。
これはちょっと、何度も読み返して自戒の材料としたいですね。
かように、気づきというものはいたるところに転がっているのだなぁ……。
美しさと「枠組み」:Chromeplated Rat:So-net blog
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このエントリはかの「水伝批判」に端を発している考察の延長線上にあるものなので、それを知らない人にとっては意味の通じない部分もあろうかと思いますが、ものすごく興味深い考察だったので、取り上げることにしました。
美意識って、共有しているようで共有してないものですよね。共有しているように感じるとしたら、それはあくまでも錯覚でしかないような。相互認知できる何かに還元したとたん、一定の確率で、何かが零れ落ちてしまうものだと思うんですよ。
自分の持つすべての美意識を認知できる何かに還元することが不可能な以上、本当の意味でそれを共有することはできない、それでも汎用性を持つ美の概念があるのは、重なり合っている部分の大小に由来するのかもしれませんね。それが美を語る上での枠組みとして機能している……。
そう仮定したなら、確かに、どの要因がその枠組みを決めるのかを遡ることによって、個人個人のうちにある詩的な美意識を認めつつ、更なる相互理解を図ることができるのではないかと言う主張は、すごく前向きな主張に感じられます。
10+4 diary >> 枠組みの強さについて
組織の枠組みでぬりえ|かしこまらない人生論 『げんごろく』
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これまた刺激的なエントリです。冒頭の強調された文字を、3回くらい繰りかえし読んでしまいました。エントリを読み終えると、このエントリタイトルがいかに秀逸かがわかります。
枠組みの中でもできることは確かにあります。枠組みの中でしか出来ないことも、もちろんあります。
ただ、自分が今どの枠組みの中にいるのか、これに対しては自覚的でなくちゃいけないとは思います。枠組みの存在にすら気づけない人間に、その中で自由な色を塗るような発想が沸くとも思えませんので(笑)
枠組みは確かにある。あるけど、どっちでもいい。そういうスタンスを取れるようになったらいいですね。それは最初から枠組みの存在を無視するのとは違いますもんね。
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