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2011年
02月23日
(水曜日)

そういう見方もある

※この記事の読了時間は:約 7分42秒です。

さんざん迷ったあげく、結局、映画「ソーシャルネットワーク」を見てきた茅須です。

迷ってた理由ですか? 白人の顔の見分けがつかない、これに尽きます(自爆) 向こうの人たちが東洋人の顔は皆同じに見える、というのと同じ原理ですよーだ><(幼児かオマエはorz)

けど、大なり小なりインターネットにどっぷりつかっているような人たちは見ておいた方がいい、などという記述を各所で見るにつけ、これはやはり見ておくべきなんだろうなぁ、と思っていたところ。

そろそろ上映終了しちゃいそうだし見に行かない?と友人に誘われまして、これ幸いと映画館に出かけてまいりました。


しかし、いろんな見方・捉え方のできる映画ではありますよね。ウェブに深くかかわっている人と、そうでない人との間には、この映画に対する温度差が生じていそうな……


ここからヒントを得ました。本日は「そういう見方もある」をキーワードに検索、視点や立ち位置を変えることで、物事の見え方や捉え方が変わった話について書かれたテキストを、ピックアップしてみようと思います。

不合理ゆえに我信ず: あまりに深い四つの言葉 不合理ゆえに我信ず: あまりに深い四つの言葉

進化しすぎた脳、茅須も読みましたよ。対象が高校生だというだけあって、平易な言葉で語られているにもかかわらず、何度も頭の中を揺さぶってくれて、固定観念に揺らぎを与えてくれた良本でした。

が、それにも増してこのエントリの最後とコメント欄に登場した利己的な遺伝子談義に激しく反応してしまったドーキンス・オタなワタクシww

ドーキンスについては

これらの過去エントリでも熱く語ってますので、興味ある方はぜひ、辿ってみてくださいww


確かに、各種専門学者たちは自分の専門分野の概念でもって「そこにある事象」を読み解こうとするでしょう。

そこに宗教的・哲学的な概念の入り込むスキはないのかもしれません。

ですが、彼ら学者の専門的知識には敬意を払いつつ、それらの意見に対して盲目的に信奉する必要もないんですよ。

ゆえに、コメント欄における「きすぎじねん」さんの「それらは相反することではない」という意見にこそ、賛成したいと思います。


意味が分からない人は元エントリへレッツゴー!(笑)

link74:言うまでもないけど. . . . link74:言うまでもないけど. . . .

ちょっと読みにくいページですが(汗)ぜひ、くじけずに読んでください。

誰しもみな、この手の間違いは犯してしまうものですし、犯しやすい間違いだからこそ、意識しておく必要のある、とても大事なことだと思うんで。

女だから。子供だから。最近の若い子は。そういう言葉に還元した途端に、分かったつもりになってしまう恐ろしさを、多くの、本当に多くの事例を交えて、語ってくれています。例は「オランダ人は」「西洋人は」「東洋人は」というカテゴリ分けになってますけどね。根底にある恐ろしさは、同じものです。

カテゴリ分けの誘惑は、そこかしこに転がってます。そういう自戒も込めてのピックアップです。

概念の意味を誰にでもわかるように答えよ – PictorialConnect 概念の意味を誰にでもわかるように答えよ - PictorialConnect

あああ、茅須、こういう哲学的な問答、大好きなんですよ……読むのが(自爆) 議論に参加できるほど頭の回転が速くありませんのでorz

ただ、速さではぜんぜん追いつけませんが、じっくりゆっくり考えて自分のものの見方を醸成させるのは好きですねー。

そのうえで、茅須が得た「概念」の定義は「存在を知覚するためのもの」なんですよね。ピックアップ元エントリの以下の言葉

その、物事の見方がもたらされる事で、これまでモヤモヤとして曖昧だったモノに説明がつけられる、そういうものを「概念」と呼ぶのだ。

が、この定義を後押ししてくれているように感じました。こちらでは「概念」=「どうやって物事を見るか」という言葉で定義されてましたが。

茅須的には、平和な状態がそこにあっても、平和という概念を定義しないと、平和は平和として感知されないとでも言いますか。平和という概念を定義したことで初めて、平和な状態にいる人たちが平和というものの存在を認識できる、みたいな。

しかし、茅須的な捉え方では、概念って体のいいレッテル貼りに他ならないじゃないか……と思わず遠い目をしたくなってしまいました。そしてレッテルを貼らずにはその状態を感知することすらできない、言葉という存在の不完全さに、改めて思い至りましたよorz

あるいは茅須が言葉というものを不完全にしか捉えることができていないだけかもしれませんが つД`)・゚・。・゚゚・*:.。

本当に効果的に人生を営む人というのは[名言コツコツ] 本当に効果的に人生を営む人というのは[名言コツコツ]

二つ目の引用文は好かれる人は1%が違うからの引用ですけど、これ、一理あると思いつつ、自分の経験則から、どーしても納得できないんですよね。

森博嗣がモリログアカデミィでいつだったか書いてた、初対面の印象が悪い方が、その後の付き合いが続きやすいという話に通じるんですけど。

加点方式か減点方式かって話なんですよ。

マイナスから始まったら、そのあとは、よほどひどい付き合い方でなければ、プラスが積み重なるけど、プラスから始まったら、相違点の方が気になって、あとはマイナスになる一方なんですよね。

類似点を探して、その場限りの会話をスムーズにしたところで、ものすごく空しくないですか、それ。

そんなだからお前はトラブルメーカーなんだと返されたら、反論の仕様がないんですが(苦笑)

だから、7つの習慣からの引用文には、大きく頷いてしまいましたよ。

おそらくこのブログを書いている人も

考え方や価値観が違う人との会話はぎくしゃくすることもありますが、あまり構えすぎずに、「へぇ~、そういう見方もあるのか」というぐらいで受け入れればいいのかもしれません。

ということばでエントリを〆ているくらいですから、同じように感じているんだと思います。

類似点ばかり探して、その場限りの会話をスムーズにするくらいなら、相違点に目をつけて、それを楽しむくらいの気持ちを持っていたいなぁと、そう思う茅須なのでした。

またいつか会う日までという言葉の。 (いけいけどんどん) またいつか会う日までという言葉の。 (いけいけどんどん)

縁というのは本当に不思議ですよね。

いくら繋ぎ止めたいと願っても、切れるときは切れるものだし。

逆に、まったく意識していないのに、気が付いたら何十年も途切れずに関係が続いていた、なんてこともあるわけです。

ただ、確かに、

たとえば人生で「はじめまして」と「またいつか」という言葉、どちらの方が多く言っているかを考えれば、前者のほうが圧倒的に多い。

というのは真理なんですよ。

縁というものは切れるときは切れるものなのに、ふだんはそれを意識も自覚もせずに暮らしていることの方が多いということなんでしょうね。

縁の切れてしまった人に対しては、「またいつか」を口にする機会も与えられないことの方が、圧倒的に多いような気がするんですよ……

だからといって、いつかは切れてしまうもののために、幾ばくかの努力を行うことを、笑い飛ばすこともできませんしね。それだけその人を大切に思い、その人と離れがたく思っていることの証左ですから。

とはいえ、いくら人為的な努力を重ねたところで、それでも別れは訪れるものですから、それはそれで受け入れるしかないんでしょうね。

この長い元エントリの締めの言葉を、しみじみとかみしめてしまいました。


Comments (Close):4

soup 11-02-23 (水) 21:58

概念ねぇ・・・「決め付けようとする思考」あたりですかね。私が把握しているのは。
「物の見方」って、「これは“こう”である、もしくは“こう”ではないのか?」と「定義する」行為や考え方そのものなので、上記のように感じます。
「存在を知覚するためのもの」というのも近い感じですが、思考方法としてのテクニックのような印象が強いですね。

類似点や相違点なんて初対面の場合、殆どの人は同時に感じ、判定してるものだとばかり思ってました(^^;)第一印象の再検証でどちらかに集中して判定しようとしてる場合は別ですが・・・。ってその判定を行おうとする時点はすでにトラブった場面が多いような気が(^^;)
私はあまり人付き合いが上手い方ではないので、逆に初対面の人と沈黙が続いても耐えられます(^^;)

加点方式か減点方式かは私の場合、相手に対する期待値のレベルによって変わりますね。なので全くフラットな相手の場合は、数回合うまでフラットなまま・・・てゆうか会ったことすらすぐ忘れるし(爆)<顔が覚えられない奴

mairu 11-02-23 (水) 23:04

>soupさん
相変わらず食いつき早!Σ( ̄ロ ̄lll)ビックリ
 
「定義=ある程度の線引きや決めつけ」を行わないともやもやしたものに対して言葉に還元することができないわけですよね。で、言葉に還元したときに、その還元方法によって、元エントリ主の書いてらした「どうやって物事を見るか」ということ=本性的な部分が暴かれてしまう、そんな気がします。そう考えると、どうやって物事を見るか、という部分は、概念の結果として表れているのかもしれませんね。
 
初対面の話。茅須はミシラーなのに沈黙が苦手ww そして自分から喋って自爆するんですww……orz 喋る機関銃のあだ名は伊達じゃありませんよww(自慢できることか!) なので、相手に対して最初からフラットに構えられないのが敗因だったということが、ただいま判明いたしました(自爆) 自分と違うところを探して、そこを楽しんでるつもりなので、その楽しみ方に不快感を抱かれてしまったら、そりゃトラブルメーカーにもなりますよね つД`)・゚・。・゚゚・*:.。
 
こんなブログやってるのがその証左なんですよ。自分と違う部分を持っている人の話を果敢に拾ってきてこういうのがあるのかと楽しんでいる部分が、同じようなことを面白がっている人にはすごく楽しんでもらえるんだけど、そうでない人にとっては、こういう雑多なつくりはウザイんだと思います(苦笑)
 
あーなんかひとつ自分にとっての謎が解けた気分です。
ありがとうございましたー!!!

j1nn 12-04-20 (金) 0:26

エントリーのご紹介ありがとうございます。
言葉の不完全さについて、以下の

「脳は心を記述できるのか」を読んで
http://www.j1nn.com/archives/51687212.html

というエントリーを昔書いたことがあります。

私はその不完全な言葉こそが「認識の限界を超えた状況を伝える手段として最も有効なもの」として君臨していると考えています。

なのでその不完全性を特に憂う必要がないと思っていますw

概念は自分自身に物事を納得させるためのツールとしてあり、それを他者(時には自分自身)に伝えるためのもっとも有効なツールが言葉だと思っています。

mairu 12-04-21 (土) 17:16

>j1nnさん
ご訪問ありがとうございます。
関連エントリも読ませていただきました。
言葉の不完全さって、別の側面から見れば自由度に置き換わりますね。
不完全であいまいだからこそ、自由に扱え、有効なツール足りえたとしたら、まさに、言葉の不完全性を憂うのは本末転倒ということになりますね(笑)
なんだか安心してしまいました(^^)
素敵なコメント、ありがとうございます!

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